式内賀茂神社はこの地が最初の鎭座地だと伝。船橋JCTの東北、小さな谷の入り口北の尾根の麓に鎮座する。 創立年代不詳。京都賀茂別雷神社(上賀茂神社)の荘園(御厨)で、ここで採れた米を京都まで運んでいたと伝わる。その関係で勧請されて当社が創建された。 当社を加賀国加賀郡の式内社「三輪神社」に比定する説もある。 |
加茂神社 創立年代は明確ではないが、古来加茂地区の産土神として崇敬せられ、明治6年村社に列した。明治の初期、区内5ヶ所に在った小祠を合併した。かつて京都加茂社の御厨であったゆかりの神社とか、式内三輪神社と考えられたこともあったが、確証はない。 石川県神社庁 |
加茂神社と桂清水 津幡町英田(あがた)地区の加茂区はその昔、京都の賀茂神社の荘園で、ここで採れた米を京都まで運んでいたといわれています。その関係で、後にこの地に加茂神社が建てられ、加茂と呼ばれるようになりました。加茂神社の創立年代は明確ではありませんが、古くから加茂地区の産土神として崇敬され、1873(明治6)年に村社となりました。同神社の祭神は、加茂神(かものかみ)・大山咋神(おおやまくいのかみ)・伊弉冊神(いざなぎのかみ)・建御名方神(たけみなかたのかみ)です。 『加賀志徴』によれば、集落の東方1キロほどの所に、かつて「かつら山」と呼ばれた山の崖から清水が湧き出ていました。この清水は京都の加茂川に通じており、加茂明神の御手洗(みたらし)だったと伝えられています。また、加茂明神にまつわる伝説も残っています。 その昔、加茂に明神様といわれる神様がいました。ある日、フナの姿に変わって川を下っていると、片方の目に風に飛ばされたモモの実が当たってケガをしました。その時、横山の御手洗池に住むフナが、自分の目を取り出し、神様の姿に戻った明神様に手渡し、後ろも振り向かずに泳ぎ去っていきました。 その後、明神様は御手洗池が見える丘に移り住み、横山村の人たちも立派なお社(やしろ)を作ったといわれています。それからは、加茂ではモモが実らないし、御手洗池のフナも片目になってしまったといわれています(英田地区の伝説「明神様とフナ」の話より引用)。 村の神社や集落はかつて、村の奥の墓地近くの谷あいに集まっていました。その近くにこの湧き水がありましたが、今では使われておらず、その痕跡のみ残っています。 津幡町観光ガイド |