【三宅記】
鎌倉末期に成つたと思われ、三宅島の壬生家、新島の前田家、伊古奈比当ス神社、三島大社、国会図書館等に伝えられている。各本相互に多少の異同はあるが、大体の内容は同じである(活字本としては、昭和18年刊『伊古奈比当ス神社』所収のものがある)。これは造島・噴火の事實を史的背景とし、仏教的説明を加えてはいるが、七島から伊豆半島にわたる三島大明神とその系統の神々についての信仰史を述べたもので、珍重すべき資料である。これによると、三島大明神は、三宅島を本拠とし、伊豆列島の諸所に多くの妃をもち、あまたの御子を設けて造島・開発の業をすすめられ、ついに伊豆半島東岸の白浜の地(大社郷に属し、今、賀茂郡下田町白浜)に、その正妃伊古奈比盗_と相並んでしずまり坐したという。
以下、wikipediaによる解説。
『三宅記』の記述は、3つの物語から構成される。あらすじは次の通り。
まず第1部では、天竺に生まれた王子(三嶋神)は、継母の懸想による父の怒りを買って流浪し、支那、高麗と渡り、孝安天皇(第8代)元年に日本に到来する。そして富士山頂でまみえた神明に安住の地を請うと、富士山南部の地を与えられた。この地では狭かったので「島焼き」(造島)を行うこととしたが、その前に一度天竺に帰国する。再び渡来した際、丹波で出会った翁媼との会話の中で、自身の名が「三嶋大明神」であること、正体が薬師如来であることを知る。翁(天児屋根命)からは「タミの実」をもらい、翁媼の子の若宮・剣宮・見目を連れて伊豆に向かう。そして孝安天皇21年、多くの龍神・雷神達とともに「島焼き」を行ない、7日7夜で10島を生み出した。その島々には自身の后を配置し、各后は王子達を産んだ。
第2部では、三嶋神は箱根の湖辺に住む老翁媼の女3人を大蛇(龍神)から救い、3人を后として三宅島に迎える。3人の后もまた多くの王子を産んだ。
最後に第3部では、三嶋神は富士山において、東遊・駿河舞の芸を習得した壬生御館(みぶのみたち)という人物に出会う。御館は神々が造った島々を見ようと三宅島に渡来、三嶋神の命に応じて築地を築いた。推古天皇2年(594年)正月、垂迹の時を迎えた三嶋神は御館に奉斎を命じ、500年後に守護神となることを宣言、石笏を託して垂迹する。御館は息子の実正(実政)に東遊・駿河舞の技を、三嶋神は実成に亀卜の技を教えた。そして御館は本国へ帰り、三嶋神は白浜に飛び立ったが、その後も御館の子孫は三宅島において三嶋神を奉斎し続けたという。
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