三島神が半島を開拓しつつ北上の途次、その属神である当社の祭神がこの地を開拓したと伝う。 明治18年以前は、岩科の宮、神明宮などと称していた。 もとは本村字山口之内下屋敷に鎮座、中世、現地に遷という。 国柱命神社は、伊豆国造が職掌のひとつとして行っていた、伊豆の国魂神の祭祀と繋がっていたと思われる。 |
国柱命神社 創立年月日は詳かではないが、式内社で、延喜式神名帳には「伊豆国那賀郡二二社国柱命神社」とあり、また伊豆国神階帳によれば、「従四位上国原姫の明神」とある。いずれにしても当地開殖の祖神で、他から勧請した神社ではない。古くは岩科の宮と称し、後に伊勢神明宮又、単に神明宮とも言ったが、明治18年国柱命神社と復称した。本殿内に「建治2年(1276年)大歳丙子3月29日平泰行藤原重安」と墨書した御霊代奉安板札を安置している。これにはまた元応元年(1319年)9月19日の日付もみえる。板の中央上部に直径十数センチメートルの正円の日焼け跡あり、今は失われた鏡があったものと思われる。 現在地より少し下ったところに下屋敷という所があり、社伝によればこれは旧社地で、中世に現在地に移ったという。また、ここに古井戸があって、上古の神饌水であったとも言われている。近辺には神社に縁のある地名(宮畑、神田、神奈場その他)が数多く残っている。 もと岩科村の枝郷であった道部村が、寛文4年(1664年)に分離独立した後も、棟札五に明記されているように、現在の岩科8区と道部区を氏子とするこの地域の総鎮守であった。「岩科」が国柱の転訛で、イワシラ更にイワシナと訛ったものと考えられる。 松崎町HP |
國柱命神社 國柱は久爾乃美波之良と読り○祭神明か也○在所詳ならず 神社覈録 |