伊勢朝日駅の北。関西本線線路の北の山の中腹に鎮座する。 創祀年代は詳らかでないが、社伝によると白鳳年間に伊賀の敢国神社より少彦名命を勧請し、のち室町時代に山城の国北野より天満宮を相殿に勧請して奉祀したと伝えられる。 年代は確定しがたいが「大吉天神宮納帳」等の史料から戦国時代以前に天神宮として崇敬されていたと考えられる。 元和3年(1617)に桑名城主となった菅原道真の後裔松平隠岐守定勝は当社を崇敬し、自家の紋章を献じた。 明治2年明治天皇御東幸の際勅使奉幣があり、その後式社として認定されるようになった。 |
由緒 白鳳年間(650〜720)伊賀の国、敢国神社から少彦名命を勧請、さらに、室町時代に山城の国北野より天満宮を相殿に勧請して奉祀したと伝えられる。 元和3年(1617)に桑名城主となった菅原道真の後裔松平隠岐守定勝は当社を崇敬し、自家の紋章を献じたのをはじめ、牛飼料として田三反を寄進した。その後も、代々松平侯の崇敬を受け、定紋の幕ちょうちんの下付があり、慶応4年(1868)の役所宛ての由緒書には松平越中守参詣の記事がある。 明治2年3月14日天皇がご東幸のとき、官幣使亀井隠岐守を代表として派遣され、ご幣物金千匹ならびに白木綿、また二首の献詠があった。 同39年12月神饌幣帛料共進社に指定され、翌40年10月4日須佐之男社「祭神建速須佐之男命」八王子社「祭神五男三女神」愛宕社「祭神火之迦具土神」稲荷社「祭神宇迦之御魂神」八幡社「祭神応神天皇」稲荷社「祭神大宜都比売命」両大神社「祭神天照大御神・豊宇気比売神」蛭子社「祭神不祥」の境内社を村社苗代神社へ合祀し、その社名を苗代神社と称することになった。 他の市町村の崇敬者の多く、境内にある明治35年の「神馬舎木馬信徒者寄付表」には、多数の人たちの氏名が刻まれている。 昭和5年8月19日郷社に列せられ、今日に至っている。 少彦名命は医薬・酒造の神で世に恵比寿様と称し、商売繁盛・五穀豊穣の守護神であり、また菅原道真公は学問の神として尊崇されている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
延喜式内苗代神社由緒 鎮座地 三重郡朝日町大字縄生 2645 祭神 少彦名命・菅原道真・建速須佐之男命・五男三女神・火之加具土神・宇迦之御魂神・応神天皇・大宜都比売神・天照大御神・豊宇気毘売神・不詳一座 例祭 10月5日 春大祭4月19日 由緒 社伝によれば、白鳳年間(650-720)に伊賀国の敢国神社より少彦名命を勧請して祀ったと伝える。「延喜式」神名帳に朝明郡の一社として記載されている。また社伝には山城国の北野神社より菅原道真公を勧請したという。「大吉天神宮納帳」の史料から戦国時代以前に天神宮として崇敬されていたと考えられる。 近世にはいると、元和3年(1617)に桑名城主となった松平定勝より桑名松平家の家紋使用が許され、さらに牛飼料として田三反の寄進がなされる等代々の桑名領主の崇敬の厚い社となった。 明治2年(1869)の明治天皇御東幸にさいし、勅使亀井隠岐守をして奉幣の儀にあずかった。 同6年村社列格。同39年には、三重県より神饌幣帛料供進社の指定をうけた。同40年須佐之男社、愛宕社、稲荷社、八幡社、両大神社、蛭子社の各境内社を合祀した。昭和5年(1930)郷社に列格。同21年社格廃止。同年宗教法人として届出、現在に至っている。 社頭石碑 |
苗代神社説明 約1300年前 白鳳年間(65O〜720)伊賀の国、敢国神社より少彦名命を勧請。 「祭神少彦名命」(すくなひこなのみこと) 約500年前 室町時代(1392〜1573)山城の国北野天満宮(京都)ご祭神である菅原道真公を勧請。 「祭神菅原道真公(天神様)」(すがわらみちざねこう) 約400年前 江戸時代元和3年(1617)に桑名城主になった松平定勝〔まつだいらさだかつ)公が苗代神社を崇敬し、自家の家紋(梅鉢)を献じ社紋となる 明治2年3月14日 2回目の東行の際に官幣使亀井隠岐守(かんぺいし かめいおきのかみ)を代表として派遣されご幣物金千疋ならびに白木綿と二首の献詠があった。 明治39年12月神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりようきょうしんじんじゃ)に指定 明治40年10月4日境内社を村社苗代神社に合祀(こうし)その名を苗代神社と称することになった。 昭和5年8月19日に郷社に列せられる 社格は昭和21年に廃止されました 神紋12葉菊花紋で応神天皇(八幡社) 社紋梅鉢で桑名城主松平定勝公 社頭掲示板 |
苗代神社 苗代は奈波志呂と訓べし○祭神少彦名命、(古志)○縄生村に在す、(同上) 北勢古志云、此神社は縄生村に在と云り、但此村内に天神社、云々、十社ある内いつれならん、いまだ考得ず、猶よく尋ね見て定むべし、祭神は少彦名命也と云り、誠に然るにや、例のおぼつかなし、さて此所に苗代神社有て、埋縄村に移田神社ある事由あることゝ覚しくて、其説上に云るが如し、埋縄といふも移苗の心、縄生と云も苗生の心の村名なるべし、然るを徴古録、古谷双紙に、桑名郡福永村に在よし云るは、いみじき妄説にていふに足らず、(考証も同じ)福永村の内に、いさゝか松の生て社も何もなき所を、推当にそれならんかと古谷氏のいへりしよし、今は其里人なども半はしか心得るやうになれるぞかし、是亦後の世の惑はしき物にて、又もやいかなる古をしひたる非ともも出こんかと、筆のついでに弁へおく也と云り、 神社覈録 |