この地は田口御厨の地。田口御厨の神明社とされていた。 創祀年代を詳らかにしない。 朝明郡田口村字里2079番地に鎮座していた。 大正6年1月6日には、旧朝明郡田口村字幅王山の村社福王神社に合祀される。 |
由緒 福王神社、鈴鹿山系の一つ老杉がおい茂る竜ケ岳の山麓に鎮座しております。 ご本尊は、百済の仏工安阿弥勅によって彫まれ、聖徳太子の手でこの霊場に安置されました。毘沙門天王は、七福神の王として、また四天王随一の守護神としてあがめられ、神社の鎮座せられた山を俗称「福の山」とよぶようになりました。 毎月三日、十三日、二十三日の縁日には、信仰厚い参詣客でにぎあいます。毘沙門天王の正月の命日には、毘沙門講と称して商家の人々が小室坂の雪をふんで参詣し、一年の開運を願います。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
福王神社の由緒 御祭神 饒速日命 天照大神 倉稲魂命 大山祇神 応神天皇 市杵島姫命 毘沙門天 聖徳太子 福王山は鈴鹿山地にあって、大和の信貴山と並ぶ、太子崇敬の霊場であります。古くから田口は、神宮の神領地として貢納米を伊勢へ献上していました。集落の南入口に鎮座の旧穂積神社は延喜式内社の由緒を誇り、饒速日命を祀り穂積氏の祖神として崇められていました。 また田口には神明社、八幡社、稲荷社、弁天社、山神などの農耕神を祀り、このことは永い村の歴史と、村人の信仰の深さを顕わしています。江戸期は、桑名藩領下が永く、城主松平氏も毘沙門天を領国鎮護の神として崇敬すること篤く、春の大祭には家臣を伴い、親しく参拝していました。 なお山内の森厳を守るため、福王山一帯を桑名藩の藩有林に指定、保護の手をさし延べました。そのため空を圧する神杉、古木の大樹に天狗が住むという天狗伝説が生れ、鈴鹿の野登山と共に京都の鞍馬山と結ばれていました。毘沙門天を福徳の神として崇め、聖徳太子を敬仰それに氏神穂積社をあわせて福王神社と尊称し庶民信仰を象徴する古社であります。 毘沙門天王御縁起 抑壇上御厨子のうちに敬い奉る毘沙門天王は紀元1229年敏達天皇5年(576年)百済国より献ずる所の佛工安阿弥救を受けて彫むところの尊像なりしを聖徳太子此霊場に負い来て当山に安置し奉らる夫より七福神の王なればとて福王山と名ずく日本四天王の随一なれば中古元名年中盗賊ありて外に移し奉らんと背負い行きけるに福王は是れ有縁の霊場なりと夢想の告に驚き程なく御山にかえし奉る夫より以来此の山に安置し来て霊験日々にあらたなり伏て神徳を仰ぎ奉るに唐土の明皇善无畏に勅して此の尊像を拝し給えば西蜀の鬼兵忽に滅びしとかや吾朝田村円鎮に随い東奥の夷賊一時に敗びけん和漢其ためし拳で計へ難しされば右の御手に利剣をとり給うは降魔勝敵の威神を顕はし左の御手には宝塔を捧げて七難即滅七福即生の利益を現し給う一度参詣恭敬の輩は福徳自在の志願を美ち一度拝礼信仰のものには開運長久のおもいを美たしめたまう尊像なれば謹みて拝礼あられましょう。福王神社 社頭掲示板 |
福王神社 福王山は鈴鹿山地にあって、大和の信貴山と並ぶ、太子崇敬の霊場であります。古くから田口は、神宮の神領地として貢納米を伊勢へ献上していました。集落の南入口に鎮座の旧穂積神社は延喜式内社の由緒を誇り、饒速日命を祀り穂積氏の祖神として崇められていました。また、田口には神明社、八幡社、稲荷社、弁天社、山神などの農耕神を祀り、このことは永い村の歴史と、村人の信仰の深さを顕わしています。江戸期は、桑名藩領下が永く、城主松平氏も毘沙門天を領国鎮護の神として崇敬すること篤く、春の大祭には家臣を伴い、親しく参拝していました。尚、山内の森厳を守るため、福王山一帯を桑名藩の藩有林に指定、保護の手を差し延べました。そのため空を圧する神杉、古木の大樹に天狗が住むという天狗伝説が生まれ、鈴鹿の野登山と共に京都の鞍馬山と結ばれていました。毘沙門天を福徳の神として崇め、聖徳太子を敬仰それに氏神穂積社を合わせて福王神社と尊称し庶民信仰を象徴する古社であります。 公式HP |