朝明川北岸近く。下野小学校西の田の中の島状の地。 創祀年代は詳らかでない。 「石部(いそべ)」の由来は、下野の歴史の中で、「神宮御領荘園目録」に下野御園「岩田御厨」の名が見られ、神宮との関係が深く、当時神宮の神主で勢力を持った「石部一族」が統括そして繁栄し、氏族と由緒の深い神々をお祀りされたものと考察される。 古来、中里、北山、山城三村の産土大神として奉祀され、春日明神と称されていた。 大正5年1月に東鐘村の式内社と比定される大神社を合祀した。 <特殊神事> 当社は神宮に奉る供物を調達する御園(田畑)を守る守護神として祀られ、古くから“田の宮さん”と親しく呼ばれて崇拝されて来た。その貴い由緒を稲作りを通じて後世に残し伝える為「一坪神田」がある。わずか一坪ではあるが、祈年祭の鍬入れの儀から、御田植祭、夏祭の虫送りの儀、収穫祭の抜穂の儀、新嘗祭の新穀感謝祭に至るまで、一年間の祭典と一連の稲作りの係わりを啓蒙教化していくには意義深いものがある。尚、この神田で取れた初穂は、“新嘗の初穂”お守りとして氏子授与されている。 |
石部神社 創立年代は不詳であるが、祭神は天照大神・天児屋根命・応神天皇・保食神・素盞鳴命・大山祇命・天目一個命である。延喜式神名帳に記載されている社で今から約1100年以前からのものである。本殿の中に元禄10(1697)寛政2年(1790)、同6年(1794)、天保4年(1833)、文久3年(1863)の棟札が納められている。 旧拝殿は、明治末期より大正初めの一村一社運動により旧下野村六字(中里、札場、山城、北山、西大鐘、東大鐘)の神社を合祀した際、東大鐘の太神神社の拝殿を、また楽殿は山城の桜神社の拝殿をそれぞれ移築したものである。年月の経過とともに傷みがはげしくなり、平成4年に新しい拝殿が完成した。 社頭掲示板 |
石部神社 ご祭神は、主祭神の天児屋根命の他、天照大神・応神天皇・保食神・素戔鳴命・大山祇命・天日一箇命である。 創祀年代は詳らかでないが「延喜式神名帳」(廷長5年・927年)に記載されていることから、約千百年以前にはすでに祀られていた。 当社は、明治の合祀令により、朝明町・北山町・内大鐘町・札場町(山城町・大鐘町の氏神は戦後の分祀)の氏神として現代に至っている。 「石部」の由来は、下野の歴史の中で「新宮御領荘園目録」に下野御薗(岩田御厨)の名がみられ、新宮との関係がたいへん深く、当時新宮の神主で勢力を持った「右部族」が統括そして繁栄し、氏族と由縁の深い神々をお祀りされたものと考察される。 下野地区史跡委員会 社頭掲示板 |
石部神社二座 石部は伊曽倍と訓べし○祭神在所等詳ならず 北勢古志云、此神社は、古谷草子、俚諺抄、また或書にも、石榑村に在とのみ云るは委しからず、抑此村は、石榑北村、同南村、同東村、同下村とて四村あるが中に、神社は、云々、総て十七社あれば、今いづれをそれとさせるにかあらんいとおぽつかなし、猶よく考べて定むべき事也、(其中に北村なる神明社は、熊谷権現と神明と合せ祭るよし里人云り、もしくは是にもあらんか、こは外々の社に、二柱なるは聞えぬを、是のみ然るか、二座とあるにがなへれば、こゝろみにおどろかしおく也、)又祭神を古谷双紙には天日鷲命と云、或書には天日方奇日方命也と云り、共に詳ならず、將二座とあるにも叶ひ難し、 類社 近江国愛智郡石部神社二座、同國蒲生郷、趣前国今立郡、加賀國能美郡、伺國江沼郡菅生、越後國古志那桐原、同國三嶋郡御嶋、但馬国出石郡、同國朝来郡刀我、同国同郡朝来、播磨国賀茂郡石部神社、(各一座)加賀国江沼郡宮村、丹波國氷上郡、同國船井郡出石鹿、丹後國與謝郡阿知江岩部神社、(各一座)越中国射水郡、越後邦頚城郡水嶋磯部神社、(各一座)近江国野洲郡馬路石邉神社、 神社覈録 |