椿大神社
つばきおおかみやしろ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】椿大神社 伊勢国 鈴鹿郡鎮座
          (合祀)石神社
          (境内別宮)椿岸神社
          (境内社)県主神社

   【現社名】椿大神社
   【住所】三重県鈴鹿市山本町1871
       北緯34度57分52秒,東経136度27分6秒
   【祭神】猿田毘古命 (配祀)天津彦火瓊瓊杵尊 栲幡千千比売尊
       (合祀)高御産巣日神 天照大御神 五男三女神 天之穗日神 豊受大神
       大穴牟遅神 速玉男神 伊邪那美大神 大事忍男神 保食神 迦具土神
       建速須佐之男命 大山津見命 木花佐久夜比売命 大雀命 品陀別命 菅原道真
       彌都波能売命 大山咋命 宇迦之御魂神 八百万神 息長帶比売命 天津日子根命
       天真名鶴命 志那都比古神 板倉家祖先 白髮大神主 祭神不詳

   【例祭】10月11日 例祭
   【社格】伊勢国一宮 県社
   【由緒】天平20年6月17日『大安寺資財帳』に記載あり
       貞観7年4月15日正五位下『三代実録』
       寛平3年8月21日従四位下『日本紀略』
       貞観5年(863)正五位下
       寛平3年(891)從四位下
       天正11年秀吉の峯城攻撃で炎上
       寛永14年本多俊次社殿.華表等造営
       寛文年間板倉重常社殿造営
       宝永4年8月御供料高25石
       同5年10月御燈料高25寄進
       明治4年4月郷社
       昭和3年11月県社

   【関係氏族】山本氏
   【鎮座地】古来この地に鎮座

   【祭祀対象】山・甘南備
   【祭祀】古来より継承されている
   【公式HP】 椿大神社
   【社殿】本殿神明造
       幣殿・内拝殿・神樂殿・拝殿・御饌殿・渡廊・樂所・神輿庫
       神饌調理所・神符授與所・社務所・客殿・倉庫・参籠所・修行道場・参宿所等

   【境内社】
   【境内図】 境内図
   【別当】神宮寺として、当宮奥の院とされる光雲寺
       それに阿彌陀寺・瑞光院・東光寺・圓照寺・神宮寺等の別当寺五ケ所があつた。


鈴鹿川の支流御幣(おんべ)川(山本町辺りの枝川を鍋川(南辺川)ともいう)が作つた椿扇状地の奥に鎮座する。
社伝によれば垂仁天皇27年八月倭姫命の御神託により磯津(鈴鹿川)の川上高山短山の麓、土公神陵の前方御船(舟)磐座の辺りに『道別大神の社』として社殿を造営し奉斎されたと伝えられている。
サルダヒコ神の神裔であり神世から祭祀してきた山本神主家は当社を拠点に伊勢地方を掌握しており、当社創建以来、代々「猿田彦命」を襲名していたが、崇神天皇のころに神名使用を禁じられたために「行満」(修験神道)と称し山本家の祖先神となったという。
中世期は一の宮として発展し、また仏教の影響も受け、修験もさかんとなる。(サルダヒコ神の末裔であり、山本氏の祖でもある行満大明神は修験の祖として役行者を導いたとされる。)
 天正11年(1583)に羽柴秀吉による織田(北畠信雄)領であった伊勢亀山侵攻により社殿古記録焼失。天正14年に復興。
 明治4年に郷社。昭和3年に県社列格。昭和初期に内務省神社局によって全国2000社のサルダヒコ神を祀る総本宮であることが再確認され、「地祇猿田彦大本宮」と尊称。「国幣大社」列格の手続きが開始され国幣大社の内示を受けるが戦争の為に列格は中断した。
当社は北勢の猿田彦大神を奉じる海部族が、その川上の山本に、この大神を氏神として奉斎したと推定される。
本社の背後にある海抜450mほどの椿が岳を神南備として祭祀したとも、背後にある入道ケ岳(海扱906m)には、その中腹に数多くの磐座が存し、それらを古代信仰の祭祀遺跡であるともいう。
境内中央近くに「御船磐座」があり、柵と注連縄で覆われた清浄な神域の中に、多数の配石が置かれている。その中の「巨木の根元に玉石が敷き詰められた四角形の聖域」に、3つの小ぶりな石が置かれている、これが、椿大神社の祀る3神を宿した磐座だとされている。
【参考文献】椿大神社二千年史―伊勢国一の宮猿田彦大本宮椿大神社御鎮座二千年奉祝記念  たま出版 1997/11


由緒

伊勢国鈴鹿山系の中央麓に鎮座する椿大神社は、往古時代、只今の神社の背後にそそり立つ高山入道嶽、短山椿ケ嶽を天然のやしろとして、(神代の神跡いわくら現在)高山生活を営まれたクニツカミ猿田彦大神を主神とし、相殿に皇孫瓊々杵尊、栲幡千々姫命を祀り、配祀に天之宇受女命・木花咲耶姫命を祀る。神話に伝わる天孫「瓊々杵尊」降臨の際、猿田彦大神、北伊勢道別の里なる地祗本陣を旅立ち給ひて天の八衢に「道別の大神」として出迎え、風ぼう雄大、超絶した神威を以って恙なく天孫を高千穂の峯に御先導申し上げた事で肇国の礎を成したこの大神を、後に人皇第11代垂仁天皇の27年秋(西暦紀元前3年)倭姫命の御神託により、磯津(鈴鹿川)の川上、高山短山の麓、土公神陵の前方御船磐座辺りに、「道別大神の社」として社殿を造営し奉斎された日本最古の神社であります。仁徳天皇の御代、御霊夢により「椿」の字をもって社名とされ現在に及び、昭和の始め内務省神社局の調査により、全国二千余社の猿田彦大神をまつる本宮であることが明かとなり、「地祗猿田彦大本宮」と尊称されております。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




椿大神社

社殿創始は神話に伝える「天照大神」「猿田彦大神」の時代であります。
  天孫(てんそん)「瓊々杵尊(ににぎのみこと)」が降臨の際、猿田彦大神は、天の八衢に「道別(ちわき)の神 」として出迎え、風貌雄大、超絶した神威を以って恙なく天孫を高千穂の峰に御先導申し上げ、肇国の礎(いしずえ)を成したこの大神を、後に倭姫命(やまとひめのみこと)の御神託により、磯津(いそづ)(鈴鹿川)の川上、高山短山の麓に「椿(ちわき)の大神の社(おおかみのやしろ)」として奉斎することになったのは、天神(あまつかみ)と地祇(くにつかみ)の幽契(ゆうけい、すなはち霊通による約束)であって、日本の国家肇国の発祥を物語る重要な意味があります。
 この北伊勢高山短山の麓に地祇・猿田彦大神を主神として祀る椿大神社があり、南方はるか二十四里の所に天神を祀る伊勢の神宮がありますのは誠に神慮によるものと言うべきでしょう。
 昭和初期、内務省神社局の調査によって、全国二千五百社に及ぶ猿田彦大神を祀る神社の総本宮であることが再確認され、「猿田彦大本宮」(地祇大本宮)と尊称するようになりました。

公式HP



椿大神社

伊勢平野を見おろす鈴鹿山系の中央部に位置する高山入道ヶ嶽(906メートル。奥宮有)・短山椿ヶ嶽(450メートル)の麓に鎮座し、鈴鹿側支流の御幣川が形成する扇状地の根元に鎮座し、鬱蒼たる杉木立のなかに鎮座している。
 神代より高山入道ヶ嶽・短山椿ヶ嶽山中で営まれていた猿田彦祭祀であったが、垂仁天皇の皇女である倭姫命の神託によって猿田彦神陵前方の「御船磐座(みふねのいわくら)」に伊勢開拓神であるサルダヒコ神を主神としてニニギ尊・タクハタチチヒメ命を相殿に祀った社殿を造営したことにはじまるという。
 サルダヒコ神の神裔であり神世から祭祀してきた山本神主家は当社を拠点に伊勢地方を掌握していたが、垂仁天皇の代(垂仁天皇27年)に伊勢の皇大神宮鎮座にあたって、奉仕したのがサルダヒコ神の末裔とされる大田命(伊勢の猿田彦神社)であり、以来伊勢神宮と密接な関係にあった。
 当社創建以来、山本神主家は代々「猿田彦命」を襲名していたが、崇神天皇のころに神名使用を禁じられたために「行満」(修験神道)と称し山本家の祖先神となったという。(行満神主の頃に獅子舞が創始され、当社の獅子舞は日本最古とされている。)
 仁徳天皇の御霊夢によって「椿」に名を社名とし、光孝天皇仁和年間に「伊勢一の宮」、そして醍醐天皇期に「延喜式内小社」に列格。中世期は一の宮として発展し、また仏教の影響も受け、修験もさかんとなる。(サルダヒコ神の末裔であり、山本氏の祖でもある行満大明神は修験の祖として役行者を導いたとされる。)
 その後も神威を発揚していたが戦国期の天正11年(1583)に羽柴秀吉による織田(北畠信雄)領であった伊勢亀山侵攻により社殿古記録焼失。天正14年に復興。
 明治4年に郷社。昭和3年に県社列格。昭和初期に内務省神社局によって全国2000社のサルダヒコ神を祀る総本宮であることが再確認され、「地祇猿田彦大本宮」と尊称。「国幣大社」列格の手続きが開始され国幣大社の内示を受けるが大東亜戦争の為に列格は中断。  昭和10年3月に警視庁は当社分霊を奉斎して国民守護・導きの祖神とし、現在の警視庁も交通安全の神として引き継いでいる。



椿大神社

御舟石坐御由緒
此の御神跡を御舟石坐と申し伝え、中央三個の石を天降石と古来より称す。神座を依って明らかにす。
中央奥は主神道祖猿田彦大神、左は皇孫瓊々杵尊、右は栲幡千千姫命。
往古国津神が磯津の浜より溯って御舟をここにつながれ給い、高山短山(たかやまひきやま)のいほりに安住なし給うと申し伝う。日本国土の神社の淵源を物語る貴重な御神跡で有ります。
(内務省神社局考証課長宮地博士調査考証)
謡曲うづめ(室町時代作)
宮路久しき神垣や神垣や、尽くせぬ春ぞ長閑(のど)けきそもそも是を勢州一の宮椿大明神と仕え申し神職とて候(中略)有りし昔の岩戸の舞をふみ轟ろかし給いにし鈿女御前のあらたかさに手向を捧ぐるばかりなり。
よし誰とても同じ心本社は猿田彦の大神天の八街よりさきはらいし皇孫尊を中津国にむかえ給うも神代の御事(中略)
往昔あふれる椿が岳と影向ならせ給いし時御船を爰につながれしは春立つ今日にあされり(中略)
伊勢之国一之宮椿大神やしろ
猿田彦大本営

HP



椿大神神社

椿は豆波木と訓べし、和名鈔、(草木部)椿、(假字上の如し)」大神は於保武賀美と訓べし、○祭神猿田彦大神、(頭注)或云、保食神、〇山本村に在す(考証、俚諺)〇当國一宮とも云ふ、(一宮記、河曲郡都波岐神社とす、)
雑記に、今椿大明神といふ、又行満大明神ともいふ、保食神也、又式なる小岸大神社は、今岸大明神といふ、両社相殿に坐すなり、」亀山賦に、椿嶽の下にあり、椿岸社(三重郡に在す)は、俗に下椿といふ、」多氣窓螢に、昔椿の社より朝廷の御所せしこと恒例也、と云り、」或人云、当社前にあやつぱきとて、檜の葉に似たるものに椿の花さく也、色は赤白あり、他所になきもの也とそ、
類社
当国河曲郡都波岐神社、近江国伊香郡椿神社、
神位
三代実録、貞観7年4月15日乙丑、授伊勢國從五位上勲七等椿神正五位下、

神社覈録



郷社 椿大神社

祭神
 猿田比古神
 木花咲夜比売神 保食神 須佐男命 五男三女神
 大山祇命 迦具土神 猿田彦命
合祭 大山咋命 宇迦之御魂命
合殿 天津彦火瓊々杵命 拷幡千々姫命
創建年代詳ならす、或は云ふ垂仁天皇27年と、神名帳考証に、「椿大神社、今在山本村一宮記云、椿神社、衢神猿田彦命也、按椿訓都波岐、與道導訓相通」と見え、神名帳考証再考には、「椿大神社、一宮記曰く、猿田彦命也、神鳳抄を按ずるに、桑名郡に椿神田あり、(鈴鹿郡を誤て桑名郡に入る)三重郡に椿御園(廿二町七郷)とあり、是によるに椿は地名也、社號の義は、椿といふ地の田の神社にて、(〇頭書云、郡村名寄に、椿世と云ふ村有り、鈴鹿郡なれば是と近地なるにや)神鳳抄に、所謂神田に祀るところ也、河曲郡の都渡岐神社は、今其地三重郡に属して、かの御園に祀る所也、共に太神宮の御園と神田なるを、猿田彦神とするは、拠ろなきに似たり、然れども太神宮の御田なる故、五十鈴川上の狭長田を守らせ給ふ故事によりて、此神を其地に祀れるなれば、俗伝の真なるを尊ぶべし、椿の訓を、道別の通音とするが如きに、暇宇の法をわきまへざる杜撰笑ふに堪たり、社地山本村に在り」と云へり、神社覈録に、「椿大神社、椿は豆波木と訓べし、和名鈔(草木部)椿(暇字上の如し)大神は於保武賀美と訓べし、祭神猿田彦大神、或は云ふ、保食神、山本村に在り、当國一宮とも云ふ」とあり、又勢陽雑記に云く、「今椿大明神といふ、又行満大明神ともいふ、保食神也、又式なる小岸大神社は、今岸大明神といふ、両社相殿に坐すなり、亀山賦に、椿嶽の下にあり、椿岸社(三重郡に在す)は、俗に下椿といふ、多氣窓蛍に、昔椿の社より朝廷の御祈せしこと恒例也と云へり、或人云く、当社前にあやつばきとて檜の葉に似たるものに椿の花さく也、色は赤白あり、他所になきものなりとそ」、神祇志料に、「椿大神社今山本村椿嶽の麓にあり、一宮椿大明神と云ふ、即伊勢一宮也(本社所蔵康暦永徳明徳等書写大般若経抜、一宮記、神名帳考証、勢陽雑記、椿詣記、式内社検録)按式内社検録に云く、社の坤位域内に、前方後円西向の大塚あり、高山塚と云ふ、是大神の霊陵なるべしと云へり」と見ゆ、即ち延喜式神名帳に伊勢国鈴鹿郡椿大神社とある者是なり、三代實録に、清和天皇貞観7年4月乙丑、從五位上勲七等椿神に正五位下を授くる由見え、また北畠准后家記多氣窓蛍に、「白河院天皇の勅に依り、正三位の神なるゆゑに社田五十町寄附せられ、本國一宮と称す」と見え。其後仁和天皇卿宇当國の國司国府(于今当郡国府村各惣社の称存せり)に入府の時、当大椿神社へ最初に奉幣参拝ありしも、後には國府に於て総拝となりしか故に総社の称あり、中古以來神宮寺の跋扈せしため神威稍衰へしのみならす、元亀天正の間兵乱相踵ぎ、社殿及び神寳古記録等多く兵焚に罹りて焼失す、既にして世治るに及び亀山城主本多氏は、寡て当村随光院より奉納せし大般若経の残本に康暦元年12月26日、奉施人一宮椿大明神、大願主比丘尼聖周、永徳2年12月26日、勢州鈴鹿郡御薗山本、椿大明神、妙通、明徳3年5月19日、奉施入一宮椿大神、妙通等と巻末に記載あるを見て頗る崇敬の念を増し。社田を寄附し社殿を修補す、蓋し寛永年中と云ふ、其後元禄正徳の頃まで社僧神官巫女等数家ありしが、漸く年を経るに從つて、或は他に移り或は絶家し、吉田家より受けし許状のみ僅に存す、明治4年亀山縣第八区の郷社に定められ、越えて同6年三重縣第六大区二、三、四小区の郷杜に列せられ、同40年村社三社大神、同石神神社、同小岸大神社、同大宮神明社及び境内社6社を本社に合祀す、
社殿は本殿、拝殿、宝殿、祭舎、社務所、門、廻廊等具備し、境内坪数1831坪(官有地第一種)外に上地林並御料林合せて壼町四反二畝廿九歩明治38年並同40年に於て境内に編入許可せらる、

明治神社誌料



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