伊勢自動車道伊勢関ICの南西300mにある。集落の北池の辺にある。叢林がよく目立つ。 もとは現地の西南西500mの御手洗(みたらし)の字名が残る愛宕山西の小高い丘にあつた。 天正年中、社頭衰微し、のち現在地に遷座したという。明治40年12月に明村の各社を合祀して明神社と単称するに至つた。 志婆加支神社は論社がいくつかあるがいずれも難があり、現状では継承社は不明である。 御巫清直は当社を比佐豆知神社(奄芸郡鎮座)に比定している。 |
明神社 当社は、もと延喜式内志婆加支神社であったとする説があり、異説のあって定かではないが、旧御社地は現在の愛宕山の西方に広がる丘の上にあり、岩坂に出る道が参道であったようである。御手洗という小字名は、参道途中の手水舎の古跡でそのあたりを無里(無郷)をいう由である。現在の「底田」は古く舟底田御薗と言い上古、内宮の御神領で毎年籾六斗を内宮の倉庫へ上納していたことが「神鳳抄」に見えている。天正年中(1573-1591)社頭の荒廃著しく現在地へ奉遷したということである。明治40年の頃には林地区を除く旧明村各地に村社、無格社が38社を数えたが、明治41年各地区一社計六社に合祀し、同45年1月4日現在の鎮座地にすべての社を合祀して明神社と単称し今に至ったものである。 皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会 |
志婆加支神社 志婆加支は假字也〇祭神詳ならず○柴崎村に在す、(俚諺) 考証云、大八洲霊、勢陽俚諺是に從ふ、拠を志らず、又考証に、在楠原村、称天神此乎、俚諺に、未詳、今考柴崎村と云り、今是に從ふ、 神社覈録 |