尾前神社
おさきじんじゃ 所在地ボタン 社名ボタン















   【延喜式神名帳】尾前神社 伊勢国 奄芸郡鎮座

   【現社名】尾前神社
   【住所】三重県安芸郡河芸町大字東千里759
       北緯34度48分4秒,東経136度33分44秒
   【祭神】速佐須良比盗_ (配祀)塩椎神 大山津見神 品陀和気神
       『考証』五十功彦命
       『再考』鷸山祇
       『古谷草子』天鈿女命
       『三國地志』『勢陽五鈴遺響』祭神詳かならず

   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】天武天皇より尾前土宮の宮号を賜る
       後鳥羽天皇の代(1185)に奄芸祓所の称号を受けている
       明治6年3月村社
       同39年12月25日神饌幣帛料供進指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】垂仁天皇18年勅令によって今の千里ヶ岡中尾前の地に社殿を建てる
         鎌倉後期に現地に移転

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「土御前」と称していた
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・参籠舎

   【境内社】

集落内。海の近くの神社。参道の敷き砂厚い。本殿覆い屋あり。
垂仁天皇18年、勅命によって今の千里ケ丘中尾前の地に神殿が建てられていたが鎌倉時代の後期に至って里人と共に現在地に移った。
宝物となっている獅子頭二口は、高倉天皇の御代に、朝廷から献じられたものと伝えられている。


由緒

尾前神社(一名土御前)東千里字尾前
この社は延喜式内社で、祓所の霊神速佐須良比売命を祭神とする。
垂仁天皇18年に勅命によって今の千里ケ丘中尾前の地に神殿を建てその後鎌倉後期頃に村人と共に現地に移転したと考えられる。 尚当社は霊験殊にあらたかで天武天皇(679)より尾前土宮の宮号を賜り一名土御前と号し、また後鳥羽天皇の代(1185)に奄芸祓所の称号を受けている。
当神社に獅子頭二口があり国中の悪鬼邪神を祓うために朝廷(高倉天皇の御代)より奉納せられたものである。
尚上野城主より社領5石を受領し、明治維新の際天皇神宮御参拝の帰途勅使をして御代拝せしめられている

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




尾前神社

この社は延喜式内社で祓所の霊神、速佐須良比売命を祭神とする。
垂仁天皇18年に勅令によって今の千里ヶ岡中尾前の地に社殿を建て、その後、鎌倉後期に村人と共に現地に移転したと考えられる。

社頭掲示板



獅子舞神楽

獅子舞神楽 無形文化財
尾崎神社の「獅子舞神楽」は、4年に一度を舞い年と決め、東千里地区の氏子の中から選ばれた20数人が、1月1日から3日まで氏子の家を訪ね家内安全・五穀豊穣の門舞いを行うものです。
平安時代末、伊勢国内に悪疫が流行した時、病魔退散祈願のために朝廷より獅子頭が奉納され、獅子舞祈願によって病魔は終息したといわれます。以来4年に一度を舞い年と定め、近在へ神楽祈願の“舞い行脚”を行いました。現在舞いは全九舞で、保存会の手によって受け継がれ、約800年の伝統を誇ります。

社頭掲示板



尾前神社

当社鎭座の由来を尋ぬるに、人皇十一代垂仁天皇天下を治むる18年夏4月、皇女倭姫命が天照皇大神の神託を奉じて南下の途次、天閾(ミカド)に尾前の地に一社を鎭座すべきことを上奏す。因て天皇勅を伊勢の國司(の)大若子命に下して始めて神殿を建て、天村雲命の苗裔博多の岩立(イワタテ)命宣旨を蒙り、奉幣使と爲り之を祭る。

昭和27年提出の神社明細帳



獅子舞神楽

獅子舞いの由来は、『風土記詳略』(古書)によると、
「高倉天皇、承安(じょうあん)3年(1173)伊勢の国内に疫病、妖魅(ようみ)が盛んにおこって、国郡が不穏であった。同4年春正月に朝廷は勅を下して、国中の悪鬼邪鬼を祓(はら)うため、御獅子数口(から)を造らし、当尾前土宮(おざきどぐう)に2口を奉納せられた。この御獅子祈祷によって国中の悪疫病魔直ちに終息せり。」
としるされている。
これが尾前神社の獅子舞神楽(まいかぐら)の起源である。
それ以降、4年に1度の舞年を定めて獅子を舞い出し、村中はもちろんのこと、北は鈴鹿市若松より、南は津市まで、また亀山市下之庄から、東は磯山、上野、豊津、白塚へと神楽祈祷を続けてきた。
しかし、社会の変動、戦争などにより、何度か舞神楽を中止したこともあった。
第2次世界大戦後、昭和24年(1949)に復活し、昭和30年、33年、36年の舞年には人材がとぼしいながらも舞神楽を続けてきた。
しかし、その後の高度経済成長の余波をうけ、舞神楽を行う人が少なくなり、ながく継続してきた獅子舞神楽を中止しなければならなくなった。
それが、昭和47年に河芸町教育委員会のすすめによって復活し奉納されたが、ふたたび中止となった。
その後、一般区民の間に復活の気運が高まり、昭和54年に保存会が結成され、獅子舞神楽が河芸町無形民俗文化財に指定された。
舞神楽はその後も継続され、今にいたっている。
戦前の獅子舞に関係していた古老に話を聞いた。
獅子には、牡頭(おかしら)と牝(め)頭がある。それぞれの獅子のお頭(かしら)、後舞(あとまい)、口取(くちとり)が3人1組になり、笛、太鼓にあわせて舞う。
舞は9種類あって、1から9までで約3時間かかる。
本場の舞は1の舞から9の舞まで全部舞うため、広い場所で行った。
南ぜこは正法寺の境内、北ぜこは信光寺の境内で舞った。
舞う時間が3時間もかかるので午前、午後に分けた。
本場の舞のほかに門舞(かどまい)がある。
これは本場の舞を簡単にしたもので、申し出のあった家の玄関前で舞う。
舞い方は、後舞は獅子のなかに入らないで、尾を持って演じ、口取は天狗の面をつけて、簓(ささら)をすって拍子をとり、笛、太鼓に合わせて舞う。
これは、家々の悪魔払いをするためである。
また厄年の人が厄払いのため、特に頼んで獅子に頭をかんでもらうこともあった。

http://mietsukawage.mie1.net/e109608.html



尾前神社

尾前は乎佐岐と訓べし〇祭神五十功彦命、(考証、俚諺)〇大別保村に在す、俗浜宮と称す、(俚諺)〇旧事紀、(天皇本記)景行天皇皇子五十功彦命、伊勢刑部君祖、
勢陽俚諺云、享保年中紀州侯御改、大別保村浜林中の社に定る、一説に刑部村とあれども、国主帳面極る上は致すべからずとあり、

神社覈録



伊勢国INDEXへ        TOPページへ


学校DATA