立野山(水汲山)山上に鎮座し、見晴らしが良い。 当社の所在については、諸書に、異説をみず、この地に古くより鎮座と思われる。 現在の主祭神は、大山咋命であつて、他の祭神は、明治41年5月11日、村内各大字の神社を合祀した際、追加せられたものである。 古く、立野の一帯に居住した物部氏の一族が、その氏祖を奉斎し立野村の産神として崇敬したものと思われ、古来神徳顯著にして、特に歯牙を患う者、之を祈れば立どころに治癒するという、又酒を醸す者、之を祷るに未だかって損失を招かず、造酒の神として尊崇され、松尾大明神と称されたと言う。明治7年6月郷社に列格、同四41年4月7日に社号を松尾神社と改称した。 |
亀の井(長寿の水) 当松尾神社には29柱の神々が合祀されていて主祭神の大山咋命は酒造りの神として崇拝されています。 古書にも「酒を醸す者之を祈れば未だ嘗て損失を招かず云々」とあり、往古より鎮座地水汲谷より湧き出る霊水を酒造家は元水として造り水に混和して用いたものです。 寛政5癸丑11月松阪近郊の酒造家、酒屋の方々によりこの石造の井戸枠が献造されたのです。 又、長寿の水・母乳のよく出る水としても尊重されてきました。 社頭掲示板 |
松尾神社 340段もの石階段、その参道階段に奉納された50基にものぼる鳥居をくぐり上りきった頂上に神社本殿が鎮座する。境内からは松阪市内が全貌でき、中部国際空港の管制塔も望める。地域の小中学生や市内の高校生たちが、運動クラブ活動でこの階段を上り下りする光景にたびたび遭遇する。 享保9年(1722年)に六世徳川宗貞が松阪にお成りの時、当社の事を下問になり「殺生禁断」の制標を立てられた。途中、この碑が今も残っている。 由 緒 松阪市立野にありもと立野神社といった。今も立野の明神さんと呼んでいる。大山咋命を祀る延喜式神名帳に記載する飯高郡九座の主神で、昔から立野郷の産土神として奉祀された由緒の古い社である。明治40年10月同地の八雲神社、八柱神社、翌41年5月丹生寺の白雲神社、岡本の八雲神社ほか藤之木、大足、西野の各八雲神社を合祀して、現在では大山咋命のほか二十九神が祀ってある。 三重県神社庁 |
立野神社 立野は多千乃と訓べし、和名鈔、(郷名部)立野、(仮字上の如し)○祭神詳ならず○立野村に在す、(考証、俚諺)今松尾明神と称す、○旧事紀、(天孫本紀)宇摩志麻治命十三世孫物部建彦連公、立野、伊勢荒比田連等祖、 類社 尾張国丹羽郡、常陸國久慈郡立野神社、(各一座) 神社覈録 |
郷社松尾神社 祭神 大山咋神 創建年代詳ならすと雖も、神名帳考証に、立野神社、今在立野村、倭名鈔(郡名部)云、立野、多千乃、按五十猛神称伊達、立與達言通、郡名飯高疑始於此神名、因爲姓乎」とあり、神祇志料には、立野神社、今松坂の西立野村に在り、立野大明神と云ふ、蓋物部氏の族立野連の祖神を祭る」と見え、又神社覈録には、「立野神社、立野は多千乃と訓べし、祭神詳ならす、立野村に在す、今松尾明神と称す」と云ひ、共に飯高郡(明治29年飯南飯野二郡を合ぜ飯高郡と改む)九座の一に列し式内小社とす、神名帳考証再考に云く「立野村に在り、和名抄に、立野(多千乃)、内宮儀式帳初神郡渡会多氣飯野三箇文、本記行事の條に、近江大津朝廷御代、多氣四箇郷申割弖、立飯野高宮村屯倉と有り、古來神痔御厨屯倉、事同じく名を相通じ、飯野高宮村、屯倉より、飯高郡の名も出ぬれば、此立野は痔野にて、飯高郡わかれし後に、屯倉ありし野なるべし、当郡の最初に、此社を載たるも其故有り、記神前の例の如ぐ倉稻魂なり」と云へり、旧事紀(天孫本紀)に云く、「宇摩志麻治命十三世孫物部建彦連公、立野、伊勢荒比田連等祖、」神鳳抄に云く、「立野村神田一町、」三國地誌に云く、「立野村に坐す、俗に松尾明神と称す、」公事根源に云く、「比叡山の神は松尾社と同体にて大山咋神也、」古事記に云く、大年神娶天知加流美豆比売生子、次大山咋神亦名山末之大主神、此神坐近淡海國之日枝山、亦坐葛野之松尾用鴨鏑神也、」是を以て社伝によれば、古來松尾明神と書きたる幟を建つるは古例なるのみならす、立野の山頂に鎮座あるが故に山末の御名に合へり、且神徳顯著なるを以て旧領主は殊に崇信厚く、享保年中社地に禁殺生の石標を建てられ、神地を汚すことを詐されず、其碑今尚社頭に存せり、特に霊徳の掲焉たるは、歯牙を患ふるもの之を祈ぱ立どころに治し、報賽の揚枝積みて堆を成す、又酒を醸す者之を祷るに未だ曾て損失を招かす、是の故に謝恩の物貨社を填むと云ふ、明治7年6月郷社に列せらる、同40年中村杜八雲神社七座、同大足神社、同白山神社、同産土神社及無格社二座を合祀す。 社殿は本殿、拝殿の二宇にして、境内坪数2945坪(官有地第一種)を有し、社頭に立てば展望数里に亘る。 明治神社誌料 |