櫛田川下流東岸の氾濫平野、機殿小学校の東、大福寺に隣接して鎮座する。 集落中のごく小社であるが森が深く鬱蒼としている。 近世初頭には既に同名の社が見当らぬ未詳社であつた。 御巫清直は前野村旧神官宅に傳わる旧帳に「六根村大国玉社」とあるのに基づいて六根村の産土社御薗神社を比定した。 明治16年12月23日大国玉神社と改称。 明治41年11月「式内大国玉神社」を称した。 明治42年以下の式内社(比定社)を合祀。 宇留布津神社(腹太)・天香山神社(保津)・魚見神社(魚見)・魚海神社(川島) 昭和10年、上記4社を旧社地に分祀 |
大国玉神社 神紋:右三巴、 境内:557坪、 社殿:本殿、拝殿、社務所、手水舎、玉垣門、 氏子:350戸、 機殿地区(六根町、井口中町、腹太町、保津町、新開町、魚見町、川島町、東久保町) 当地区は櫛田川と祓川とに挟まれた田園地帯で、神麻續機殿神社(上機殿)、神服織機殿神社(下機殿)の両社が存し、神宮と関わりの深い地である。また、当地区は戸数の少ない小字ばかりであるが、それぞれに大きな神社を祀っており信仰の念が篤い。そして六根町には当社をはじめ、機殿小学校や市民センターがあり、地域文化の中心になっている。 由 緒 近世には御薗神社と称し近郷の氏神として人々の崇敬を集めていた。御巫清直『伊勢式内神社検録』をはじめとする諸書に、伊勢国多気郡の式内大國玉神社を当社にあてる説があり、この説が次第に浸透してゆき明治維新以後、この考えが定着したようである。また、当社鎮座地の六根村は、古くより神宮へ若菜を供する所と伝えられ、『神鳳鈔』に見える若菜御薗(御厨)の地に比定されており、古い時代より、この地に祀られていたことは想像に難くない。 明治16年(1883)には、社名を御薗神社より大國玉神社に変更した。同42年(1909)井口中の須賀神社・中河原の仲神社、腹太の宇留布津神社、保津の天香山神社、新開の室垣不知元神社、魚見の魚見神社、川島の魚海神社、東久保の宇気比神社をそれぞれ合祀した。 その後、昭和10年(1935)先に合祀した須賀神社他八社を氏子崇敬者の熱意により旧社地に分祀した。昭和62年(1987)8月12日大國玉神社に合併し、境内神社(八社)創立を承認される。 三重県神社庁 |
大國玉神社 大國玉は於保久爾多麻と訓べし〇祭神明か也〇在所詳ならず 類社 常陸國眞壁郡、壹岐國石田郡大國玉神社、(各一座)陸奥國磐城郡大國魂神社、 連胤按るに、此四社は其國名を冠らさねば、必大己貴命なるべし、猶大和國山邊郡大和坐大國魂神社の條見合すべし、 神社覈録 |