社伝によると、往古、大和葛城の役の行者がこの地に来て留り、行場をつくつて行をなしたという。やがて周辺地域の信仰を集めて愈々さかんになつてきたので、葛城の行者は故郷で縁故のある高鴨阿治須岐詫彦根命神社の祭神味鋤高彦根命(葛城大神)を勧請してこの地に奉齋した。 「往古は現在地の北方約一里にある神埼郡山田村に鎮座し、神宮寺と並んで勢さかんであつたが、中世に至つて急激に衰微し、その後いつしか消滅してしまつた。そこで式内社の衰亡を恐れてその分霊を移して奉齋したのが現在の社であるという。その旧跡も今では全く不明である。」との伝承がある。 現在新次神社を管理する「甲八幡神社」の宮司によると「そのような言い伝えは知らない」ということである。 |
新次神社 新次神社 江戸時代に葛城権現社と呼ばれていた神社を、明治初年に姫路藩が「播磨国風土起」「延喜式神名帳」にみえる式内社・新次神社と認め改称したものである。 境内の伊部狛犬は、大正13年5月に奉納されたもので市内では、新次神社、林田町の梛神社の二例があるだけである。また、曽坂地区には秋祭りの宵宮に誕生した子どもの氏子入りに際して新次神社に絵馬を奉納するという当子祭りという珍しい氏子入りの習俗が今日に伝えられている。 平成4年3月 姫路市教育委員会 社頭掲示板 |
新次神社 当社は豊富町の南東に位置する曽坂地区の氏宮であり、豊富町では甲八幡神社の氏子と異なり、独自の祭礼を行っている。 新次神社の創建は不詳であるが、阿遅須伎高比古尼命を祀り、江戸時代榊原式部大輔は当社を崇敬して弊帛料を捧げ、提灯一対を寄進した。文政9年(1826)本殿を建立し、天保10年(1839)本殿覆を建て、明治7年(1874)2月村社に列せられた。同32年(1899)本殿を建て直し大正6年(1917)幣殿を改築した。『延喜式』神名帳に小社祭神葛城大神(味鋤高彦根神、賀茂大神、一言主神と同一神とされる)とある。 現在は2497坪の境内に二間半×二間の本殿と三間四方の幣殿、二間四方の舞殿、三間半×三間の拝殿から成り、奉賽物は寛政8年(1796)及び大正3年の石灯籠、明治10年(1877)の石鳥居、明治40年(1907)の石造の狛犬、大正13年(1924)の備前焼の狛犬などがある。 曽坂地区では当子祭という前年の例祭以後、当年例祭までに生まれた子供の氏子入りを祝い、盛装して神饌を供え、絵馬を奉納する神事が例祭に先立って行われている。 兵庫県神社庁 |