平安朝より戦国時代を通して軍旅守護神として武門の崇敬厚く鎌倉期の最盛期には、社家三十六家、千余町の神領を有していた。 祭神は二座で東殿に射楯神(五十猛命)を祀り、西殿に兵主神(大己貴命)を祀る。 (西殿を一宮と称し、束殿二宮と称して毎朝ノ供御より始めて、諸事皆西殿より奉仕するを以つて社例とする) 飾磨郡伊和里(姫路市街地周辺)は伊和族(宍粟市一宮町須行名にある、播磨国一宮伊和神社の伊和大神を祀る氏族)の平野部においての拠点であったようで、兵主神は伊和大神であると言われている。 |
由緒 このやしろにおまつりされてる神様は、「射楯兵主神社」という社名の通り、射楯大神と兵主大神の二柱です。 射楯大神は、伊太代神・伊達神とも書かれ、素盞嗚尊の御子五十猛命のことを指しますが、父神とともに新羅国に渡られたことがあるので、度津神とも呼ばれています。天降りされるとき、多くの樹種を持って来られ、これを先ず韓国に植えられました。しかし、そこだけでは植えきれないので、更にわが国へ持ち帰り、筑紫よりはじめて大八州国ことごとくに植えられました。有功之神という名前は、この恩徳の広大なのを仰ぐためにつけられたもので、紀伊・丹波・陸奥には、今に「いだて」の社名を持つ名高いやしろがあります。 兵主大神は、因幡の白兎伝説で親しみ深い大国主命(大巳貴命)のことです。この神様は、国内の悪者を平げ、水利を便にし、田畑を開き、又、医薬の法を教えなどして国土を経営されたので、みな、その神徳に服し、国造ノ大神、天下造らし、大神の命、或は大国主命と申上げました。別に顕国玉ノ神という名前があるのは、国土経営の功徳をたたえた美称であり、八千矛神というのは武勇を、葦原醜男というのは剛強を、それぞれほめた名前です。兵主大神の名は、この八千矛神の御性格を別の言葉で言いあらわしたもので、大和・和泉・三河・近江・丹波・但馬・因幡・壱岐などには、同名のの神がまつられています。 このように、祭神の二柱はいずれも素盞嗚尊の御系統であり、その子孫にあたる伊和部の一族は後に述べるように当地方を開拓したという伝承を持っています。したがって、樹種を育成された五十猛命の社前では、毎年二月に、盛大な植木市が開かれます。又、あらゆる面に大きな功績をのこされた大国主命の功徳に対しては、近年、神前結婚が多く挙行されるほか、農耕・畜産・養蚕・漁業・商工業に従事する者からの報賽が甚だ多く、疾病治療のために医薬・温泉の道を教え、種々の災禍を払うために禁厭の法を教えられたことに対する信仰も少なくありません。 当社本殿に於いては、東に射楯大神、西に兵主大神をまつり、二間社流れ造の形式を持ち正面屋根上には、二祭神を象徴するように、二つの千鳥破風が右と左に並んでいます。そして、二間社本殿正面中央には、客神のための小さな空殿が設けられ、またその前には祝詞殿と幣殿が続き、全体として、一種の権現造を想像させる特殊な形式を持っています。戦後、再興された本殿は、元和九年につくられた形式になぞらえ再現したもので、当社祭神の祭祀には、まことにふさわしいものです。神饌を献ずる時に、西殿を先にし、東殿を後にするのを慣例としていることも、当社のまつり方としては、注意しなければならぬところでしょう。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
射楯兵主神社 御祭神 射楯大神 兵主大神 播磨国大小明神百七十四座 例祭 11月(霜月祭) 13日潮かきの儀 14日例大祭 播磨国総神殿祭 15日九所御霊祭 16日御神幸祭 御神徳 射楯大神(五十猛命、伊太代神) 素養鳴尊の御子で、天降りますとき多くの樹種を持って釆られ、父神と共に新羅国へ渡られ、先ず韓国に植え、更に我国へ持帰り、筑紫より始めて、大八州国あまず処なく植えられた、功績ある植林の神様です。 兵主大神(大己貴命、大国主命) 国内の悪者を平らげ、農、工、商、すべての産業の開発、施薬治病、禁厭、造酒、又その御妻須勢理媛命と非常に仲睦まじくお暮しになったので縁結びの神様として名高く、世の中の幸福増進を図られた人間生活の守護神です。 鎮座と沿革 最初、射楯大神と兵主大神とは別々に祀られていました。射楯大神はいつ頃から祀られたか不詳ですが、奈良時代に出来た「播磨風土記」に「因達里」にいます伊太代神 と所載されている処からみると奈良時代より更に古い事は疑えません。これに対して兵主大神は、今を去る1400年余り前、欽明天皇25年6月11日に影向があり、飾磨郡「伊和里」水尾山に祀られたと伝承されています。 延暦6年卯年(西暦787)6月11日勅命によって兵主大神を国衙小野江に遷しました。その後身射楯大神も併せ祀られ、射楯兵主神社と呼ばれる様になりました。 ではどうして総社と呼ぶ様になったかと申しますと西暦1100年頃の国司は、地方へ下ると管内の有名な神社へ巡拝する定めになっていましたが、この巡拝は仲々容易なことではなく、国府の所在地へこれらの諸神を合せ祀る事になりました。 播磨は、安徳天皇養和元年(西暦1181)11月15日に、播磨国16郡の名高い174座の大小明神を、射楯兵主神社に合祀して、播磨国総社と唱えたのが始まりで、それ以後一国の総鎮守として人々に崇敬されています。 他方、姫路城主も代々城の鎮守として崇敬厚く総社に奉幣し、重要文化財に指定されている綾小路足利の刀は、木下家定時代に寄進されたもので、又特殊神事の「一つ山」「三つ山」はいつも城主の下知によって執行され、一種の官祭とも云うべきものであって崇敬並々ならぬものでした。 併し乍ら、昭和20年の戦災により社殿、宝物等は鳥有に帰し、境内も一時荒廃の極に達しましたが、昭和復興ともいうべき現在みる社殿は元和9年の形式になどらえ昭和28年に再興されたものです。 特殊祭礼 一つ山祭(丁卯祭)61年目に斎行 三つ山祭(臨時祭)21年日に斎行 画祭とも、境内に高さ60尺、直径30尺余りの巨大な「やま」を作りこの山に神霊の降臨を仰ぐという古い祭礼形式のものです。山は置山であって固定式のものですから担いだり、曳いたりする移動式のものよりも更に古い形式のものと見られます。 一つ山、三つ山祭とも古式豊かな五種の神事が執行され、民俗学的色彩の濃い特殊神饌が献ぜられ、「やま」に附設された能舞台では、能三番の奉納、氏子の奉仕する傘鉾、飾り台、謡囃子の催物行列等があり、町々では屋根に造り人形が飾られ、全国でも珍しい祭礼行事が行われます。 一つ山祭 この祭の起源は、藤原純友の天慶の乱に際し、その鎮定の祈願祭を執り行ったのが始まりで、天神地祇祭と呼ばれていました。 その後この祭は、鎮座縁日の6月11日の干支が卯となる日(約60年の間隔でめぐってくる)に執り行われるようになり、丁卯祭と呼ばれるようになりました。 三つ山祭 この祭は天神地紙祭の臨時祭で、大永2年播磨の守護赤松晴政の下知で執行され、二基の装山を造ったのが始まりです。その後天文2年9月に三つ山祭がとり行われ、その時晴政の下知により、21年目毎に行うように定められました。これ以来三つ山祭は9月中の亥の日を中心に7日間程とり行われていました。 「やま」は、東より二色山(白、浅黄の絹布で巻き、仁田四郎忠常の猪退治の造りものをつける)中の山は五色山(青・黄・赤・白・紫の五色の絹布で巻き、源頼光、大江山の鬼退治の造り物をつける)西は小袖山(特志崇敬者より奉献の小袖で装い、三上山にすむ百足退治の造物をつける)です。いづれの山も松竹梅桜の樹木で飾られます。造り物の題材は大体こういった勇壮なものに限られており、時代により造りかえられることもありました。 五種の神事 この神事は流鏑馬、競馬、神子渡、一つ物、弓鉾指の五種であって祭礼7日間の中の日に境内で執り行はれ、御神慮をお慰めします。 重要有形民俗文化財「三ツ山雛型」 次の祭礼の参考に資するため実物1/10の精巧華麗な模型で総社に大切に保有されていて、重要有形民俗文化財に指定されています。 総社の沿革 大和時代 ○射楯大神(五十猛命)飾磨郡国達里に御鎮座(播磨風土記) ○兵王大神(大国主命)飲明天皇25年(西紀562年)飾磨郡伊和里に影向 奈良・平安時代 ○天平宝字8年(西紀764年)藤原貞国、兵主大神を水尾山に崇祠 ○延暦6年(西紀787年)6月11日、兵主大神を国衙荘小野江の柳本に遷座 ○射楯大神を梛本に遷し合せ祀り射楯兵主神社と号す ○天慶2年(西紀939年)藤原純友の乱に勅使藤原好時下向し、天神地祇祭を執行(天神地祇祭の起源) ○冷泉天皇康保4年(西紀967年)大嘗祭に播磨国飾磨郡上基田にト定される ○安徳天皇養和元年(西紀1181年)国内16郡の大小明神174座を合せ祀り播磨国総社と称される 鎌倉・室町時代 ○「軍八頭正一位総社伊和大明神」の称号を奉られる ○文永4年(西紀1267年)6目11日、天神地祇祭執行 ○建武元年(西紀1334年〕6月11日、天神地紙祭執行 ○応永3年(西紀1396年)6月11日、天神地紙祭執行 ○永享5年(西紀1433年)勅使薗基隆下向 ○嘉吉元年(西紀1441年)赤松満祐、天神地祇祭執行 ○長禄2年(西紀1458年)6月11日、天神地祇祭執行 戦国時代 ○永正3年(西紀1506年)赤松政村推鐘寄進(現存) ○永正12年(西紀1515年)6月11日、天神地紙祭執行 ○大永元年(西紀1521年)6月卯日、天神地舐祭に装山の造車1基を神前に置く、この時修羅踊を行なう(一つ山の初見) ○大永2年(西紀1522年)5月、赤松晴政装山3基を神前に置く(三つ山祭の起源) ○天文2年(西紀1533年)9月、赤松晴政、三つ山祭21年日執行を下知す 安土・桃山時代 ○天正5年(西紀1577年)6月11日、天神地祇祭を執行し丁卯祭と称す ○天正9年(西紀1581年)羽柴秀吉総社を梛本より現社地に移す ○文禄2年(西紀1593年)9月.木下家定三つ山祭を執行 ○慶長18年(西紀1613年)9月、松平玄隆三つ山祭執行 ○寛永10年(西紀1633年)9月、本多政頼三つ山祭執行 ○正保元年(西紀1644年)9月、松平忠弘一つ山祭執行(本来6月なれど繰り延ベ) ○承応2年(西紀1653年)9月、柏原忠次王つ山祭執行、前年南参道鳥居寄進(現存) ○寛文13年(西紀1673年)3月、松平直知三つ山祭執行 ○元禄6年(西紀1693年)3月、本多政武三つ山祭執行 ○元禄14年(西紀1701年)6月11日、本多政武一つ山祭執行 ○正徳3年(西紀1713年)9月、榊原政邦三つ山祭執行 ○享保18年(西紀1733年)9月、榊原政邦三つ山祭執行 ○宝暦3年(西紀1753年)9月、酒井忠知三つ山祭執行 ○明和5年(西紀1768年)6月11日、酒井忠恭一つ山祭執行 ○安永2年(西紀1773年)9月、酒井忠以三つ山祭執行 ○寛政5年(西紀1793年)9局、酒井忠道三つ山祭執行 ○文化10年(西紀1813年)9月、酒井忠道三つ山祭執行 ○文政8年(西紀1825年)6月11日、酒井忠実一っ山祭執行 ○天保4年(西紀1833年)9月、酒井忠実三つ山祭執行 ○嘉永7年(西紀1854年)8月、酒井忠顕三つ山祭執行 ○明治6年(西紀1873年)5月、三つ山祭斎行 ○明治18年(西紀1885年)3月、一つ山祭斎行 O明治26年(西紀1893年)5月、三つ山祭斎行 ○大正2年(西紀1913年)10月、三つ山祭斎行 ○昭和3年(西紀1928年)4月、つ山祭斎行 ○昭和8年(西紀1933年)4月、三つ山祭斎行 ○昭和28年(西紀1953年)4局、三つ山祭斉行 ○昭和48年(西紀1973年)4月、三つ山祭斎行 年中祭典行事 1月1日 歳旦祭(賓客特に多し) 14・15・16日 初えびす祭(蛭児神社賓客特に多し) 2月 節分の日 節分祭 18・19日 厄神祭(案内社八幡宮) 祈祷木お炎上神事あり 4月 1日〜30日 氏子白幣祭 6月30日夏越大祓式(輸ぬけ祭賓客多し) 7月1日一7日 国民・職場安全祈願祭 10・11日夏祭(審客名し) 11月・13日〜16日霜月例大祭(ひめじ祭) 御神輿がお旅所に渡御され、御神能を始め数々の神賑、演芸の奉納が行われ、参拝者は頗る多く、境内、市中の賑いは大変です。 1日一15日一30日七五三祝祭 12月31日師走大祓式(輪ぬけ祭) 除夜祭 位置 播磨国総社射楯兵主神社は山陽道を西へ、日本五大工業地帯の一つ播磨工業地帯の中心姫路市にあり、国宝姫路城の旧城内に位置しています。延喜式神名帳所載の古社で、播磨国大小明神174座の神々を合祀し一国の総鎮守として有名です。 総社造 本殿は東に射楯大神、西に兵主大神を祀り、二間社流れ造の形式をもち正面屋根上には二祭神を象徴する二つの千鳥破風が右と左に並んでいます。 本殿に続き祝詞殿、幣殿があり一種の権現造を思わす特殊な総社造となっています。 社頭掲示板 |
射楯兵主神社 射楯兵主神社について 当社は、総社さん、総社の神様と呼ばれていますが、正式な神社名は射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)と云い、射楯大神(いたてのおおかみ)と兵主大神(ひょうずのおおかみ)を御祭神としてお祀りしています。境内には、総社の名の由来になっている播磨国内の大小明神をはじめ、摂末社の神々を合わせ祀っています。 由緒 欽明天皇25年(564)6月11日に影向があり、飾磨郡伊和里水尾山に、大己貴命(兵主の神)を祀ると伝えられています。 また、播磨国風土記に「因達と称ふは 息長帯比売命(中略) 渡りましし時 御船前に御しし伊太代の神(射楯の神)此処に在す 故 神のみ名に因りて 里の名と為す」と記されているところから、8世紀以前には、射楯の神が飾磨郡因達里に祀られていたことがわかります。 二神をいつ合座したのかについては、明確な資料が存在しませんが、927年に編纂された延喜式神明帳に「射楯兵主神社二座」とあり、式内社として少なくとも9世紀後半には合座されていました。 その後、安徳天皇養和元年(1181)には、播磨国内の大小明神百七十四座の神々を合わせ祀って「播磨国総社」と称し、三日潮「播磨国総鎮守の神社」として広く知られるようになりました。 また、歴代の守護職・城主からも「家の氏宮」・「姫路城鎮護の社」として篤い崇敬を仰いで参りました。 天正9年(1581)、秀吉の姫路城大築城の際に、現在地に移転遷座してからは、池田輝政公からは表参道入り口の中堀に架かる石造りの太鼓橋(鳥居先橋)を、本田忠政公からは総社総神殿や玉垣の造営がなされ、榊原忠次公からは舞殿の再興や大鳥居(県重文)が寄進される等数々の宝物が奉献されました。 その貴重な歴史・文化財の多くは、昭和20年、先の大戦の戦禍によって烏有と帰してしまいました。 昭和23年、市民により復興奉賛会が結成され、昭和40年に昭和の大復興を達成し、また、平成の大造営を氏子・崇敬者と共に行い、多くのご奉賛を賜って、平成19年総社御門を復興しました。 年表 大和時代 射楯大神が飾磨郡因達里(現姫路市新在家本町)に御鎮座。 欽明天皇25年(西暦564) 兵主大神が飾磨郡伊和里の水尾山に御鎮座。 延暦6年(西暦787) 坂上田村麻呂が兵主大神を国衙荘小野江の梛本に還座。 天慶2年(西暦939) 藤原純友反逆の御祈のため奉幣。天神地祇祭(てんしんちぎさい)「一ツ山大祭」の起源とする。 寛平3年(西暦891) 射楯神を併せ合わせ祀り、式内社の射楯兵主神社と号す。 養和元年(西暦1181) 播磨国16郡の名高い174座の大小明神を合わせ祀り、総社と称す。 大栄元年(西暦1522) 赤松晴政、はじめて臨時祭(三ツ山大祭)を斎行。 鎌倉時代 府中惣社(ふちゅうそうしゃ)、国衙惣社(こくがそうしゃ)又は総社伊和大明神・軍八頭正一総社伊和大明神と称され、射楯兵主神社という名が表に出なくなる。 天正3年(1581) 羽柴(豊臣)秀吉が姫路城築城のため現在地へ移す。 明治維新後 改めて射楯兵主神社であることが公的に確定されました。 昭和20年、 戦災により社殿をはじめ、宝物等は烏有に帰し、境内は一時荒廃の極に達する。 昭和28年 昭和復興ともいうべき現在の社殿は元和9年の形式になぞられ再興されたものです。 御祭神 五十猛命(いたけるのみこと)と称し、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の御子神であられ、檜や楠等の木々を植樹して、日本の国土を緑豊かな国にされた植樹の神様と崇められています。 また、神功皇后(じんぐうこうごう)の新羅遠征の折に、御船の先導をしたという播磨国風土記の故事から、勝利や幸福へ導く道開きの神様としても崇敬されています。 大己貴命(おおなむちのみこと)と称し、大国主命・七福神の大黒様とも呼ばれ、后神や多くの御子神に恵まれたことから縁結びの神様と名高く、福の神として慕われています。 また、農業・工業・商業のあらゆる産業から、医薬、酒造までを生み出して、人々の暮らしを豊かにされた国造りの神様としても崇敬されています。 御神徳 当社は、二柱の御祭神を御本殿に奉斎し、古くから『二神一光』の御神徳を仰ぐ神社です。 特に、縁を結び幸福へと導く幸福増進のご利益を戴こうと、多くの方が神前結婚式を挙げられています。 また、三ツ山大祭の伝承から八難九厄祓い信仰が寄せられ、播磨国内はもとより、全国津々浦々から御神徳をお受けに参拝者が訪れます。 黒田官兵衛ゆかりの地 歴代の守護職・姫路城主の崇敬をうけてきた大社。 官兵衛の父・職隆が拝殿や神門を再建、官兵衛も制札を与えるなど、その保護に努めました。 また、黒田家系譜によると豊臣秀吉より軍陣において旗を立てる許しを得た官兵衛は、父・職隆と相談し、播磨国総社で7日間にわたり祈祷を行い父子共々、毎日参詣した。 公式HP |
射楯兵主神社 欽明天皇25年(564)に影向があり、飾磨郡伊和里水尾山に大己貴命(兵主神)を祀ると伝えられている。また、『播磨国風土記』に記されていることから、八世紀以前には射楯神が播磨郡因達里に祀られていた事がわかる。二神が同殿にいつ合座されたかについては明確ではないが、929年に編纂された『延喜式』神名帳には「射楯兵主神社二座」とあるので少なくとも800年代後半には合座されていたと考えられる。その後、安徳天皇養和元年(1181)には、播磨国内大小明神174座の神々に合わせ祀って「播磨国総社」の称号を戴いて「播磨国総鎮守の神社」として広く知られるようになった。 また、歴代の守護職、城主からも数々の宝物が奉献され篤い尊崇を仰いできたが、未曾有の大戦の戦禍によりそのほとんどが烏有と帰することとなる。現在の本殿以下の建物は戦後まもなく氏子崇敬者により再建されたものである。 兵庫県神社庁 |