国中神社
くになかじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】国中神社 二座 越前国 今立郡鎮座
          (旧地)国中神社【旧地】

   【現社名】国中神社
   【住所】福井県越前市中津山町 1-23
       北緯35度55分47秒、東経136度14分19秒
   【祭神】越國靈彦神 越國靈姫神 (合祀)天照皇大神 松葉大神
   【例祭】10月4日 例祭 10月5日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】元は、当社の北西にある三里山の山上に二座が鎮座
       天正年中兵乱のさい壮麗なる大社は廃絶
       その後現在地に遷
       明治12年(1879)11月9日村社
       同14年3月21日郷社
       明治44年8月神饌幣帛料供進神社

   【関係氏族】
   【鎮座地】元は、当社の北西にある三里山の山上に二座が鎮座
        その後現在地に遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【参考HP】 国中神社
   【社殿】本殿神明造瓦葺
       拝殿

   【境内社】

元は、当社の北西にある三里山(346m)の山上に二座が鎮座しており七堂伽藍を具備し、奉仕の社僧も多かったという。
社伝に「当社の付近字三十八社と称する一地域は、これ旧社地にして元拝殿の所在地なり。 昔時、仏教盛なる頃、僧泰澄、堂塔伽藍を此の地に建築し、摂末社と称する堂社三十八あり。 故に此の名あり。正面大門は北中津山村の中央を貫き、一直線の大路は庄境に達し、中山郷十余村即ち、川島、新堂、落井、松成、赤坂、両庄境、山室、野岡、両中津山を氏子とし、傍らには別当宗匠院を始め、数個の社坊ありてこれに奉仕し、すこぶる隆昌を極めたりしかど、天正年中の兵乱に堂塔伽藍社坊を始め、旧記宝物に至る迄総て火災にかかり鳥有に帰せり。 しかれども、御本宮のみは此の地を距たれば災厄を免れたるにより、罹災堂社のご神体はことごとく奉遷合祀したり。」と伝う。
 現在、字三十八社には、山門鳥居その他の礎石あり。 また村内には大門、立別当、四屋敷、神田、斎田、御福田、机田、御油田、五月田、九月田、霜月田、等の地字を存せりとする。




国中神社

式内國中神社沿革
祭神
越國霊彦神
越國霊姫神
天照皇大神
松葉大神
例祭 10月5日
由緒沿革
 國中神社は、延喜5年(西暦905)醍醐天皇の勅命で編纂された「延喜式」神名帳に載る式内社で、その頃既に存在していたことが証明される歴史ある神社である。
 社伝によれば、当社は越前の中央にあり、越の中山と称し、和名抄に中ツ山の郷とある。
祭神は越國の御霊彦姫の二柱を祭り、延喜式に國中神社二座とあり、往古より上宮外宮と分け祀り、当社は上宮の一座であった。往古は字中山と称する山上に鎮座され、その状況は七堂伽藍を具備して奉仕の社僧も数多く数箇の坊舎があったと伝えられる。中でも別当職正官坊は禁裏より代々法印の位を賜り、その裏付けたる法印の石造り層塔が今尚残り、現在この宮の西方に建立されている。天正年中兵乱によって、壮麗な大社は廃絶 その後現座の地に鎮座された。
 明治12年11月村社に列せられ、同14年3月郷社に列せられた。明治40年8月福井県の許可を得て境内神社 松葉神社祭神松葉大神、神明神社祭神天照皇大神を合祀した。
明治44年8月福井県告示第130号を以て神饌幣帛料供進神社に指定された。

社頭掲示板



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