創建年代は不詳であるが久しく明神(みょうじん)と称していたのを元文4年(1739)に田土浦坐神社と復称した。創立時は壮大な社殿を有していたと伝えられる。 この地方では御祭神は「火が嫌いな神様」とされ、夏祭に授与される「火除札」(ひよけのおふだ)は、火災予防の御神徳が特に高い。 |
田土浦坐神社 この神社は、本州四国連絡道の児島インターチェンジから南東へ約2Km、下津井電鉄の鷲羽山駅の南約200mの、倉敷市下津井田之浦1丁目15番30号にある。もと無格社。 社伝では、長いこと“明神”といっていたが、元文4年(1739)からもとの社名である田土浦坐神社と称するようになったという。地元では“田之浦の明神さま”と呼んでいる。 祭神は、現在は大綿津見神(船乗りの神様)とされているが、明治初年ごろの記録では、この神社は現・倉敷市児島赤崎一丁目の新荘八幡宮の摂杜(本社に縁故の深い神を祭ったもの)となっており、その時の祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊となっている。この神社が新荘八幡宮からいつ独立したかは明らかでないが、その時期は明治中期(1890年代)までのようである。 社殿は、下津井瀬戸大橋が架かる鷲羽山トンネルのすぐ西すその道路下で、下津井の町並みが一望できる高台に、南々西向きに建てられている。本殿は、一間社、流れ造り・銅板葺きで、現存する棟札から、文政元年(1818)に建て替えが行われたようである。 この神社の祭神は、火が嫌いな神様であるとのいい伝えがあるそうで、遠く近畿地方や九州辺りからもお札をもらいに来る人がいるという。 なお、この神社がある地名が“田之浦”であるのは、田土浦の“土”を“之”と誤記して伝えられたからそうなったとする説がある。 |
田土浦坐神社 当社の創立年月は不詳であるが、延喜式神名帳に田土浦坐社名神小と記され、当国式内の旧社21社中の1つである。しかしながら年代不詳にして久しく明神と称していたのを元文4年12月田土浦坐神社と復称した。 古老の言い伝えに依れば当社の往昔の建築は頗る巨大であったらしい。 当社の鎮坐地を今は田之浦(タノウラ)と云う。この田之浦の称は恐らく田土浦の誤りであろう。古来「クスミノハナ(久須美鼻)」(当社から東南にある岬)から西、下津井の西外れに至る海岸およそ数キロメートルを田土浦と総称していたようである。当社に残る石製手水鉢等にも田土浦村と刻んでいる。 瀬戸内海国立公園鷲羽山から田之浦、吹上、下津井にかけての瀬戸内海、海岸の風光は実に佳所であり、謂山水の明媚を極めるものである。 昭和63年、本州と四国を結ぶ瀬戸大橋の完成に伴い往古の景色は一変、鷲羽山から櫃石島に架かる下津井瀬戸大橋は当社の拝殿のすぐ脇に架かる。 岡山県神社庁 |