天石門別八倉比売神社
あめのいわとわけやくらひめじんじゃ


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【御本記】

天石門別八倉比売神社には「天石門別八倉比賣大神御本記」が伝わっている。ただし、この古文書は学術的にはまだ認められていないようで、偽書とする説が一般的である。
なお、訳文は「人文研究見聞録」https://cultural-experience.blogspot.com/2015/11/blog-post_82.html を参考にさせて頂いた。



【天石門別八倉比賣大神御本記】

古天地初發之時 於高天原成神名号天之御中主神止
次國雅如浮脂多陀用弊琉之時状如抽葦牙物化為神号國常立尊止
而後在神伊邪那岐神 次妹伊邪那美神 此二神國土海原及山川諸乃霊神産生之後 伊邪那岐神洗左御目時所成神名号日?大神是則八倉乃日?大神也
最初高天原爾志氏武備志賜比志後 天石門別乃神爾勅天自今以後汝等吾爾代天武備乎奉負
亦曰此羽々矢此御弓於波葦原中國仁持降天可善地爾奉蔵永爾莫用矣
吾亦天降天其地可佳止宣氏天羽々矢乃天乃麻迦胡弓止於賜只
故二神高天原與利此弓矢於持下利賜布示時二神天乃中空爾立志氏此矢乃止所以奉蔵止盟給天発所乃矢則止流地 号矢達之丘(今謂矢陀羅尾)故二神此地爾矢於覚来利天周久覚給志加波其地於号矢乃野 其矢求出低永奉蔵地乎波号矢乃御倉
其弓於奉蔵之地乎波弓乃御倉止謂只
而後二神此地爾留坐天(松熊二前之神是也)御矢倉乃御弓於守利給?在年
而後比賣大神天八重雲於伊津乃路別爾千別天天降給只最初椙乃小川乃清只流乎照臨賜天此川乃水深志止謂登毛太早止宣喜故其所乎謂早渕乃邑止
于時大地主神(土宮是也)木股神(御井神是也)参逢天此河乃魚乎漁天奉饗太神禰言鰭乃狭物止謂止毛可食物也止故号其河鮎喰川
于時大地主及木股神爾勅言久吾可住在処矣汝等宣奉導大地主答曰久是與利西乃方朝日乃直刺山夕日乃日照留気延嶺阿利請其地爾可行幸止啓天奉引導
于時在神名於者伊魔離神止白天此野爾生採五百箇野薦八十玉籖雑々乃幣奉流(其採野薦地者謂五十串野其奉饗地者謂美阿閇野謂髪狭野止)是與利西乃方杉乃小山乃麓爾到利給者石門別神迎来天敬禮啓須
大神宣久汝等吾勅言乃如爾志氏天吾乎待志哉答曰久然前乃如神宣則此處御矢乎蔵地也止仍天太神甚加褒辞賜而此地爾一宿経而(此故爾謂矢倉乃郷止亦謂屋度利乃社止)猶山坂乎攀登天杉乃小山乎経天気延乃山爾到利給布于時広浜乃神参相天時節乃御衣奉留其地乎謂御衣足止
直爾気延乃嶺乃下津磐根爾宮柱廣敷立高天乃原爾峻峙榑風天天上乃如儀仁志氏天鎮座須(天石門押坐故天石門別云八倉郷爾坐姫御神故ニ八倉比売ト云)此夜八百萬乃神々集爾集天エラキ楽賜其神集志所者喜多志嶺止謂
其嘘楽之手草及雑々乃物乎所蔵者加久志乃谷止云
即大神詠曰
雲乃居留八倉乃郷能喜延山
下津岩根爾宮井曽女都毛
此後大泉乃神爾勅志天天真名井乃水於波玉乃碗爾汲湛天写左志女朝夕乃御食炊水止須
亦小泉神田口乃御田乎奉利弖御饌乃御田止須気延乃山亦乃名者神山大日?貴坐故爾尊而云神山止
而後経二千百五年而到小治田御宇元年龝八月太神毛原美曽持爾託曰久吾宮地遙爾高峻志此故爾神主祝部巫乃百乃蒼生爾到萬天参詣拝趨爾倦労奈牟
杉乃小山者不高不低不遠不近直善地也彼嶺爾欲遷座止吾前爾従天持降流所乃瑞乃赤珠乃印璽於波杉乃小山乃嶺爾深久埋弖天乃赭乎以覆蔵是其赭者諸邪鬼妖怪及諸病乎厭爾奇仁妙奈流験止教喩賜只
赭印璽止号弖奉秘崇是也其印璽所埋之地乎謂印璽乃嶺(又謂御石之峯)于時神主祝等啓申久大神乃如託宣可奉遷坐雖然無効験者諸人乃取信如何止其時大神宣久宣哉
此言吾御前乃谷乃水乎逆仁山乃頂爾漑流?御田作以造宮乃料食止勅一夜爾而谷水逆而山頭爾至田則成熟其穂八束爾莫々然而喜穀(其谷乎左迦志麿谷云 其田乎志留志田云)
神主祝及百蒼生其神宣炳チコナル乎恐美畏美則杉乃小山爾宮柱太知立高天原爾千木高知天乃御蔭日乃御蔭止永仁隠坐弖國家乃大基乎守護御坐云云迂坐乃月者長月日者中三日此故爾此日乎以御霊現乃日止奉啓矣
奉授神位

公式HP



【訳文】

古の天地の初めの時、高天原に現れた神の名を天之御中主神(アメノミナカヌシ)という。
次に国が浮いた脂のように漂っているときに、葦の芽が生えるように生まれた神を國常立尊(クニノトコタチ)という。
その後 生まれた神に伊邪那岐神(イザナギ)次に妹の伊邪那美神(イザナミ)がおり、この二柱の神によって国土や海原、および山川や諸々の神が産み出された後、伊邪那岐神が左の目を洗った時に生まれた神の名を日靈大神(ひるめのおおかみ)といい、またの名を八倉乃日靈大神(やくらのひめおおかみ)という。
最初に高天原で戦に備えた後、天石門別(あまのいわとわけ)の神に勅命を発して「今後、汝らは吾(われ)に代わって戦に備えよ。そして、汝らはこの『羽々矢(はばや)』と『御弓』を葦原中國(あしはらのなかつくに)に持って降り、良い場所に奉蔵せよ」と申された。また、吾(八倉乃日靈大神)も天降り、「『天羽々矢(あめのはばや)』と『天麻迦胡弓(あめのまかこゆみ)』を納めるのに相応しい場所である」と申された。
よって、二柱の神が高天原より弓矢を持って降りた。その時、二柱の神は天の中ほどに立ち「この矢の止まった所に奉蔵しよう」と言って矢を放った。その矢が落ちた場所を「矢達の丘」という(今は「矢陀羅尾」という)。
そして二柱の神は、この地に矢が落ちた事を覚えておくために「矢乃野(やのの)」と名付けて、その矢を奉蔵した倉を「矢乃御倉(やのみくら)」と呼んだ。また、その弓を奉蔵した地を「弓乃御倉(ゆみのみくら)」という。
そして、二柱の神はその後も此処に留り、御矢倉を御弓を守り続けた。
その後、比賣大神(八倉乃日靈大神)は天の八重雲を押し分け、伊津乃路(いつのち)を別けて天降った。最初は杉の小川の清き流れを見て「この川は深くて流れが早い」と申された。そのため、此処を「早渕の村」という。
このとき、大地主神(土宮)と木股神(御井神)が参上し、この河の魚を漁って献上した。すると、太神(八倉乃日靈大神)は「鰭(はた)の狭物と言うべき食物である」と申されたので、その河を「鮎喰川」という。
また、このとき(八倉乃日靈大神は)大地主(おおくにぬし)と木股神(きまたがみ)に「吾(われ)が住むのに相応しい場所に、汝らが案内せよ」と勅命を下すと、大地主神が答えて「ここより西方に朝日の真っ直ぐに刺し、夕日の日が照る気延の嶺があります。その地に先導しましょう」と申した。
すると、伊魔離神(いまりのかみ)という神が現れて、昼間に野で採れた五百の野薦(敷物?)や八十玉籖(玉串)など様々なものを献上した。それから、西方の杉の小山の麓に辿り着くと、天石門別が出迎えをした。
そこで、大神(八倉乃日靈大神)が「汝らは吾の言う通りにして待っていたのか?」と問うと、「はい、ここが神宣の通り御矢を納めた所でございます」と答えた。それを聞いた大神は褒辞を与えて、そこで一晩過ごした(このため「矢倉の郷」または「屋度利の社」という)。
なお、山坂を登って杉の小山を通って気延山に到ると、広浜神(ひろはまのかみ)が現れて時節の御衣を献上した。そのため、此処を「御衣足(みぞたり)」という。
ただちに気延の嶺の下津磐根(しもついわね)に宮柱と廣敷を立て、高天原を装って天上のように鎮座した(なお、「天石門(あまのいわと)」を押し開くため「天石門別(あまのいわとわけ)」という。八倉の郷に居る姫御神であるために「八倉比売(やくらひめ)」という)。
この夜、八百萬(やおよろず)の神々は集って宴を行った。その神々の集った所を「喜多志嶺(きたしみね)」という。また、その宴(嘘楽)に使った色々な物を納めた所を「加久志の谷(かくしのたに)」という。
そこで大神は「雲の居る 八倉の郷の 喜延山 下津岩根に 宮井そめとも」と歌を詠んだ。
その後、大泉神(おおいずみのかみ)が「天の真名井の水を玉の碗に汲み移させて、朝夕の食事を炊く水とする。また、小泉神田口の御田を献上して『御饌の御田(みけのみた)』とする。気延山は大日靈貴神の坐す所であるため『神山』とする」と勅命を発した。
これより後、2105年を経た小治田御宇元年龝8月(推古元年秋8月)に、大神(八倉乃日靈大神)は毛原美曽持(けはらみそもち)に託して曰く「吾(われ)の宮のある場所は遥か高く急峻である。このため、神主や祝部、巫(みこ)などが参詣するのに疲れてしまうだろう。杉の小山(杉尾山)は高くもなく、低くもなく、遠くもなく、近くもない、正に良い場所である。そのため、この嶺に遷座することにしよう。吾(われ)は以前、天より持ってきた瑞の赤珠(みずのあかたま)の印璽(しるし)を、杉の小山の嶺に深く埋めて、天の赭(あめのあかつち)で覆い納めた。その赭(あかつち)は、諸々の邪鬼、妖怪および諸々の者に『これは病も厭う奇妙なる験(しるし)である』と教え諭してある。」と申された。
赭(あかつち)の印璽と言って秘し崇め奉ったのはこれである。その印璽(みしるし)を埋めた所を「印璽の嶺(しるしのみね)」という(また「御石ノ峯」ともいう)。
このとき、神主や祝部らは大神の託した通りに遷座して奉ったという。しかし、神主らが「諸々の人々は、これを信じないだろう」と言うと、大神も「そうであろう」と申された。そして大神(八倉乃日靈大神)は「吾(われ)が御前の谷の水を逆に山の頂きから漑いで御田を作ろう、それを以って宮の食糧とせよ」と勅命を下した。
すると、一夜にして谷の水は逆流し、山の頭(いただき)に至った。そして田の穂はすぐに成熟し、その穂は八束に実って良い稲であった(その谷を「左迦志麿谷(さかしまだに)」といい、その田を「志留志田(しるしだ)」という)。そのため、神主や祝部、および多くの若者は、その神宣が事実であったことに畏怖・畏敬を念を抱いたという。
遷座したのは9月13日である、よって、この日を以って御霊の現れし日として奉るのである。云々






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